岡田一男さんによる ECフィルムのなりたちと日本の関わり
エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ
岡田一男(東京シネマ新社/ECJA)
1 動く映像による百科事典の始まりについて
動く映像による百科事典、エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ、略してECフィルムの正式な始まりは1952年である。以来40数年、最盛期には最も成功した国際科学映画運動として存在した。その運営の意思決定機関である国際編集委員会の正式な会合が最後に持たれたのは1992年だが、両独統一は、予想外の結果をもたらし、疲弊がドイツの映像界を襲った。第2代編集者、ハンス=カール・ガレ (1933–2006)が1996年に、実質的な本部であるドイツ、ゲッティンゲンの科学映画研究所(IWF)の所長職を退くと、ガレはECの編集者という地位は保ったままであったが、IWFの後継者たちは、ECへの新たな取り組みを放棄した。正式な終息が宣言されぬままECの活動は徐々に停止した。
IWFがドイツの公的な学術研究機関であったのと異なり、ECは、国際組織であり、とりわけガレが主導した後期ECの性格は、創始者ゴットハルト・ヴォルフ(1910-95)の前期ECの本部―支部という垂直型の組織ではなく、各国アーカイブズと賛同する個人研究者の連合体という水平型の組織となっていたので、中心となっていたIWFが、ECの運営継続困難になったのなら、ECの将来をどうするかを参加アーカイブズの間で討議すべきであった。しかし、そのような討議は無かったし、ECの終息は宣言されていない。2000年ごろにオーストリアのフル・アーカイブズであったオーストリア連邦科学映画研究所(OeWF)が解体し、2010年には、民営化されていた、IWF:知識とメディアが精算され、それぞれの映像遺産を管理する施設は存在するものの、ECフィルムの公開は遅々としている。岡田の個人的見解としては、存命の国際編集委員が協議して、EC再開を宣言することは可能であり、それを阻める機関、施設は無いと思っている。こうしたことを念頭に置きながら、ECについて考察をすすめてみたい。
ほとんど全ての事の始まりと同様に、構想が湧き、賛同者が現れてという、序走・準備期間が存在する。ECフィルムは、確かに敗戦国ドイツで始まったのだが、ドイツにおける科学映画製作・研究施設は第2次世界大戦の始まる前から存在していた。1934年に首都ベルリンに、国立教育映画センターがつくられ、翌年には、高等教育施設のために、大学教材・学術研究映画を扱う部門ができ、EC初代編集者のヴォルフは、創立時からその所員として加わっていた。
主唱者、ヴォルフの映画フィルムによる百科事典をという構想は、1930年代後半に生まれ、彼自身の言葉によれば、次の3名の学術世界のビッグネームから支持された。20世紀の学問である動物行動学の創始者、コンラート・ローレンツ(1903-89)、彷徨える湖、ロプノールを予言した地理学者、スヴェン・ヘディン(1865-1952)、そして核分裂反応を解明した物理学者、オットー・ハーン(1879-1868)である。偉大な探検家、ヘディンが、ロプノール湖復活を現地で確認し、母国への帰途、ベルリンに立ち寄りヒトラーの大歓待を受けたのが1935年である。ヘディンは、1952年に世を去っているので、彼がECに寄与したのは、第2次世界大戦の前、1930年代後半にヴォルフが、ごく初めのECの構想を固める中であったようだ。ローレンツは、ECフィルムのE番号の後に続く2段階の命名法とマトリックスというECフィルムの形式の基本を確立すること、そして戦後ドイツの動物行動学へのフィルム活用を推進してECと結びつけた。ハーンは、ドイツの学術振興機関、戦前のカイザー・ウィルヘルム協会の最後の協会長として、また新生マックス・プランク協会長として、IWFを支え、所長ヴォルフのEC構想実現の後ろ盾となった。
彼らが、ヴォルフの背中をおさなかったら、ECは夢物語で終わっただろう。ナチス支配の第三帝国の1930年代後半に構想は生まれたが、戦争終結と平和の到来なしには、ECの実現はあり得なかった。というのも、この壮大な構想は、一個人、一国の熱意で存在しうるものでは無く、国際協力が不可欠なものだったからだ。
映画あるいは映像で多くの事象を収集し集大成しようという構想は、19世紀末の映画の誕生とほぼ同時に始まった。ECを考える上で必要な基礎事例を幾つか挙げておこう。
時を追って変化していく事象を画像に記録し、繰返し再現可能にするのが、映画の基本であるとすると、史上初めてそれを実現したのは、フランスの天文学者ジュールス・ジャンセン(1824-1907)である。1873年に彼は、金星の太陽面通過を観測するため、新しい記録装置を考案した。パリの映画博物館には、その実機が展示されている。この装置が実際に使われたのは、明治初めの日本、長崎郊外の金毘羅山頂上付近であった。高名な天文学者の来日と金星観測は、記憶されたが、記録装置の機能までは当時の日本では理解されず、映画の始まりに日本が噛んでいたことは、ほとんど知られていない。
一般的な、映画の始まりは1895年のリュミエール兄弟(オーギュスト:1862-1954、ルイ:1864-1948)によるパリのカフェでのシネマトグラフの上映となっている。というのも大きなスクリーンへの映写が、映画においては大きな意味を持つからだ。リュミエールは、企業家として、このシネマトグラフの映写装置を世界的に普及させようと試みた。そして装置を販売するのではなく、レンタル方式で技師付きで世界各国に派遣した。シネマトグラフの装置は、映写機と撮影機を兼ねていたので、派遣された技師たちは、世界中で撮影を試み、各地のさまざまな記録映像がリュミエール兄弟社に蓄積されていった。リュミエールの郷里リヨンには、日本からの留学生、稲畑勝太郎(1862-1949)がいた。彼は、京都の染織産業家であるが、同年配のリュミエール兄弟と親交があり、日本帰国にあたってシネマトグラフの紹介者となった。稲畑と共に来日したフランスの映写技師たちが、日本での最初の動画像の記録者となったのである。リュミエール映画は、1話1カットで数十秒づつだが、明治期の日本の興味深い集成となっている。
リュミエールの発明家としての功績で忘れてはならないのが、最初期のカラー写真、オートクロームの発明-1903年である。このオートクロームを使って、フランスの銀行家、アルべール・カーン(1860-1940)は、「地球映像資料館」を設立、世界各地に撮影隊を派遣、1908年から1930年までに、72,000枚のカラーガラス乾板写真と約100時間分の映画フィルムを遺した。カーンは、自邸に日本庭園を持つほどの親日家で、渋沢栄一(1840-1931)ら日本の銀行家たちと親交があり、日本には3度撮影隊を派遣している。栄一の孫、敬三(1896-1963)は、宮本馨太郎(1911-79)と共に1930年代前半、小型映画による民俗記録を活発に手掛けるが、カーンの試みとの関連考察は、今後の課題であろう。
もう一つ先行者として忘れてはならないのが、ロシア皇帝ニコライ2世(1868-1918)付き写真家、セイルゲイ・プロクーディン=ゴルスキー(1863-1944)のロシア帝国版図内の3色合成写真による記録である。ニコライ2世は、先述のスヴェン・ヘディンのパトロンでもあり、帝国の官憲は、皇帝の友人であるヘディンには国内いずこにあっても滞在、移動の便宜を提供すべしという勅令状を支給していたが、ゴルスキーには、1908年からロシア革命により、ゴルスキーがフランスへ亡命せざるを得なくなるまで、ユーラシア各地の事物、諸民族を記録させた。3色フィルターで3枚のガラス乾板写真を撮影し、3つの3色フィルター付き映写機で画像を重ね合わせて投影し、色彩を再現するものだが、これらガラス乾板を最終的に取得したアメリカの議会図書館は、全写真のデジタル合成を行い、鮮やかなカラー写真として、ウェブ上で公開している。筆者は、たまたま2007年にウズベキスタンのタシケントフォトハウスで、ウズベク人の富豪が米議会図書館から購入し同館に寄贈した中央アジア関連の大判のカラー出力写真に接し、鮮烈な印象を受けた。
こうした先行者たちの経験を、どれほどにヴォルフが検証したかは、判らないが、平和が到来すると直ちに彼はエンサイクロペディア・シネマトグラフィカの準備を始め、1952年にささやかなスタートを切った。もう一度繰り返そう。ドイツは悲惨な敗戦国であった。第三帝国の国土は、ほぼ4つに切り分けられた。最東部の東プロシアは、大部分がソ連領カリーニングラード州に、フリードリッヒ・エンゲルス(1820-95)が記した「ドイツ農民戦争」の主要舞台シュレジア地方は、ポーランドの「固有領土
とされ、そこがドイツであることさえ抹殺された。オーストリアは独立を回復し、別の連邦国家となった。ドイツ中央の心臓部にはソ連が実質支配する傀儡国家、ドイツ民主共和国(DDR)をつくられた。これらの地域から故郷を追われた失郷民で、米英仏管理下の西部ドイツはあふれていた。ヴォルフ自身が故郷ブレスラウには戻れない失郷民であった。だからECフィルムというのは、金にあかせて製作されたフィルム群では無いのである。逆に厳しい時代に、乏しい資金の中で知恵を絞って作られた映像の集合体である。
筆者は、モスクワの映画大学在学中の1962年から、冷戦時代には珍しい東西双方が参加する国際的な科学映画の運動体である国際科学映画協会(ISFA)の活動に加わって、そのリサーチフィルム部会で、ECフィルムに初めて接することになった。当時、驚いたのはISFAの規約が、大規模戦争勃発時の対処法を細かく規定していたことだった。ISFAは1949年にフランスの科学映画作家、ジャン・パンルヴェ(1902-89)を中心に結成されたが、戦後の西ドイツの大きな課題は、何よりもまず様々な分野でのフランスとの和解だった。その中で、パンルヴェとヴォルフは、学術研究映像における共同作業に熱心に取り組んだ。ECフィルムは絶対量としては、ドイツ語圏の作者が多いのだが、使用される言語は、平等に英仏独3語のどれかを使用することが定められている。
第2次世界大戦後の素早い取組みからドイツの科学映像は、早い段階から学術世界における映像使用を牽引することとなった。岡田桑三(1903-83)は、1958年に戦後初めてのヨーロッパ行きを果たした。この時携えて行った作品は「ミクロの世界 結核菌を追って」で、日本国内でも非常に高評価を受けた作品であったが、ISFAモスクワ大会では衝撃的なインパクトを参加者に与えた。欧米の科学映画人は、日本の科学映像の実力が彼らの想像をはるかに超えた強力なものとして認識され、岡田はパンルヴェと意気投合し、ヴォルフからは、ECへの日本の参加を熱心に口説かれた。
ECへの日本の参加の12年ほど前のことであるが、ドイツの科学映画に関心を寄せたのは、何も岡田桑三だけではなかったことを指摘しておきたい。例えば、大阪大学の植物生理学者、神谷宣郎(1913-99)教授は、1950年代からIWFの原生動物や藻類などの顕微鏡映像を取寄せて使用されていたし、東京大学の民族学者、泉靖一(1915-70)教授は、大阪民博の設置に尽力された方だが、1920年代から渋沢敬三をアチックミュージアム同人として補佐しつつ、民俗研究に映像を活用してこられた宮本馨太郎立教大教授に、ご子息をIWFに留学させ、ドイツの民族誌映像制作の手法をマスターさせよと強く勧められたという。泉教授は大阪民博の、宮本教授は佐倉の歴博のそれぞれ初代館長に擬せられていたが、何れも急逝されて就任は実現しなかった。だが泉教授の遺志は、民博初代館長梅棹忠夫(1920-2010)教授に引継がれ、EC民族映像は、全て民博で購入という方針に繋がった。宮本馨太郎教授のご子息、瑞夫先生によれば、親父にそれだけの度胸はありませんでした、ということでIWF留学の実現は無かった。
ECとゲッティンゲンの科学映画研究所=IWFは切っても切れない関係だったが、ECが始まった当初は、まだIWFは、後に良く知られた形には至っていなかった。戦前からのベルリンにあった国立科学視聴覚教育研究所=RWUは、1945年の敗戦で機能を停止、庁舎はベルリンの東地区に位置していたが、米占領軍兵舎に接収された。ヴォルフらの技術科学学術映画部門は、ゲッティンゲンから北に数10Kmの、ヘーケルハイムに移転して活動を再開した。視聴覚教育全般を扱うRWUの西独における継承組織は、3国の分割占領の中で、各地で様々な施設が試みられたり、統合されたりした。いち早く組織されたのは、ミュンヘン近郊の視聴覚教育研究所(IfdU)だが、ハノーヴァーに科学視聴覚教育研究所 (FWU)が組織され、翌46年からはハンブルクで活動した。1949年にヘーケルハイムの技術科学学術映画部門と旧RWUの高等教育部門が統合され、ゲッティンゲンに「学術映画・高等教育映画部門」が置かれることになり、1952年に、ここでECが誕生したのである。翌53年に学術映画・高等教育映画部門は、FWUの傘下の「科学映画研究所」(IWF)に改称された。そして1956年にIWFは、FWUを離れ、連邦予算と連邦条約による各州分担金で運営される独立法人となった。さらに1959-60年に撮影スタジオ・編集施設・映写ホール、フィルム保管庫・外来研究者の宿泊施設・所長邸などを完備した研究所施設が建設され、およそ50年間、2010年のIWF閉鎖まで使用された。一方、初中等教育における視聴覚教材を扱うFWUは、1970年代前半までミュンヘンのドイツ博物館内にあったが、南郊グリュンワルトに充実した新施設を建設して移転、現在も活発に活動している。独立を回復したオーストリアでも類似の組織が作られた。連邦国立科学映画研究所(OeWF)であり、ここが、ECのオーストリアにおけるフル・アーカイブスとして2000年ごろまで活動した。またベルリン東部地区にあった旧RWUの庁舎は、後に東独(DDR)の類似施設、視聴覚研究所(IfFBT)となり、1964年から1990年まで活動した。
次項では、1958年の岡田桑三のECとの出会いから、下中邦彦(1925-2002)下中記念財団理事長のEC導入決断を経て、ECJAが成立するまでに焦点をあててみたい。