七夜連続上映2017 〈異界との通路をひらく〉レポート
去る12月7日、七夜連続上映会の第六夜「音・舞踊・超越性」が催されました。音楽家・久保田麻琴さんと映像・音楽作家の春日聡さんを迎え、様々な時代の世界各地、そして日本の憑依やトランス儀礼に関わる映像を鑑賞しました。
以下では、簡単に上映会の内容を振り返るとともに、映像やトークから現れたテーマをまとめたいと思います。
上映作品(以下、【ECタイトル】、〈春日さんによる作品〉)
①【シャーマニズムの踊り】(北西パキスタン ギルギット/ダート族)1950年撮影/4分/サイレント
②【トランスダンスの一部】(南アフリカ カラハリ砂漠/!コ・ブッシュマン)1970年撮影/10分30秒
③【サンヒアンとケチャ踊り】(バリ島 カランガセム地区)1920年撮影/5分/サイレント
④〈サンギャン―バリのトランス儀礼―〉(バリ島各地/1997~2017年/春日聡)
⑤〈市山大元神楽式年祭〉(島根県江津市/2006年/春日聡)
⑥〈観菩提寺の修正会-達陀行法〉(三重県伊賀市/2015年/春日聡)
⑦〈布川花祭-五方立・榊鬼〉(愛知県北設楽郡東栄町/2016年/春日聡)
⑧〈坂部の冬祭り-山の神問答・反閇〉(長野県天龍村/2012年/春日聡)
⑨〈新野雪祭り-乱声・宝船・さいほう〉(長野県阿南町/2013年/春日聡)
⑩【夜の仮面の登場】(赤道アフリカ カルメーン草原/ ティカール族)1970年撮影/10分
今回の上映は、前半にECフィルムから抜粋した世界各地の憑依やトランスに関わる儀礼、後半にゲスト・春日さん撮影の日本各地の神楽や祭りの映像で構成されています。撮影場所は、パキスタン・アフリカ・バリ、日本では島根や三重・愛知・長野であり、さらに、撮影時期もバラバラです。モノクロの作品もあれば、音声カットの作品もありました。
これらの映像は、それぞれ異なる質感をもちながら、「超越性」という言葉でくくることが可能な共通のイメージを持っています。様々な切り口から語ることができるであろうこのテーマを、今回は、音楽と踊り、という角度からトークしていただきました。
憑依の技術
今回の上映作品を視聴する中で、憑依やトランスの現象が、それぞれ違った環境やリズムの中で演じられ、体験されていることに気づきます。それぞれの環境で異なる過程を経ながら、憑依やトランス、神がかりというある共通性を持った現象が生み出されることには、素朴な驚きを覚えます。世界各地の人間たちの営みの歴史の中で、まるで必然であったかのように、憑依に関わる儀礼が幅広く存在し、生活の中で重要な位置を占めていることです。普通、私たちの生活の中では、憑依やトランスといったものは、奇妙で怖いもの、という第一印象なのではないでしょうか。今回の上映では、そうした営みの、普遍性や身近さを感じることができたと思います。
と同時に、それぞれの儀礼・現象の個別性や多様さも、非常に重要なポイントでした。
例えば、!コ・ブッシュマンの場合は、夜通し砂漠の砂の上で踏みならして、円を回るように踊ります。複雑なステップをするわけではなく、順々に一定のリズムで足を出していきます。
一方、日本の儀礼の場合は、例えば三河の花祭りに顕著なように、鬼の衣装や切り紙、斧や榊など、色も形も凝った品々が用いられています。また、一定のリズムが繰り返されるだけでなく、緩急や迫力を伴った演劇的な筋にも忠実であるように見えます。
「(神や精霊に)憑かれる」という言葉が受動態であることから見ても、憑依は、能動的・意図的に獲得されるというよりは、受動的に体験されるものです。そのためには、ある特殊な環境を整える必要があるようであり、そこに人々の技術が込められています。したがって、環境-技術-憑依という全体を、映像の中に見つけることがまず大切なように思われます。
春日さんによれば、民族音楽の代表格であるケチャは、もともとサンギャン儀礼の伴奏として演奏されていたものであり、それが現在分離する形で取り上げられています。また、三河や島根の祭りで使われる、多様な色と形の切り紙も、多くの時間と趣向が凝らされたものであり、それ自体一つの芸能・芸術として捉えられています。
久保田さんは、「不安や喜びを技術的にうまく引き出す装置」という言葉で語っていますが、そのように、感情を操作して超越性を媒介するモノとして、音楽・民芸品・その他環境の構成を捉えることができます。
憑依に至る環境には多様なバリエーションがあります。一定の条件を整理し、極端な形で用意すれば、憑依やトランスにある種のインスタント食品のような特性を持たせることも可能でしょう。久保田さんは、「もう一つのリアリティ」に至るための、装置化され、産業ともなっている「便利なトランス」として、音楽の話をされました。映画館で映画を観る、ということも、考えてみれば不思議な体験です。100人もの見知らぬ人と一緒に、暗闇の中、巨大なスクリーンに映された異国の(あるいは日本の)映像を眺めることは、非常に特殊な経験のように感じられます。
演じること、遊び
次に興味深かった点は、日本の祭りでは、神や、山、鬼の間での問答や、枝・綱の引っ張り合いが、儀礼のスタートのきっかけなど重要な局面をなしていた点です。問答や引っ張り合いは、ある種のゲーム性や偶然性を持ったものです。もちろん最終的な帰結(例えば、鬼が敗れて枝を引き抜かれる、など)は決まっているのですが、そこに至るプロセスは、不確定なものとして了解され、遊ばれます。
おそらくこうした遊びの要素が、掛け声や応援を引き出したり、一種の緊張状態を生み出したりして、儀礼に入り込む参加の余地を生み出すのかもしれません。このような遊びの要素は、日本以外の儀礼の映像や、あるいは儀礼全体と比べるとどのように展開することができるでしょうか。
筆者にとって疑問だったのは、こうした憑依やトランスの儀礼が、どのタイミングで終わるか、ということです。
例えば、憑依を通して治療する、というとき、どの瞬間にこの儀礼が効力を持ったと了解され、潮時を迎えて「もう終わってもいい」という空気を作り出すのでしょうか。もしかすると詳細なデータなどが残っていて、例えば「朝日が昇ったら終わる」など具体的な取り決めがあるのかもしれませんが、もし仮に暗黙的にこうした終わりの気配というのがあって、それが共有されているとしたら、どういうものだろう、ということを素朴な疑問として感じます。
「必ず終わる」という最終的な帰結はありますが、いつ終わるかわからず、儀礼が治療的に成功するかも一応不明である、というような状況は、参加者たちは問題としていない可能性もありますが、構造的には先ほどの問答や引っ張り合いの構造に似ています。
遊びの要素が、憑依やトランス、あるいはその治療的効果などに重要な位置を占めるのかどうか。この問題は、今回の上映会の中心的な問題ではありませんが、何らかの興味深いポイントが隠れているように思います。
多くの声
憑依やトランスを、その環境との繋がりの中で、あるいは、掛け声や応援など複数の参加者との間で捉えると、多くの声が聞こえてきます。憑依されているキーパーソンはやはり主役であり花形ですが、実際に映像に迫力を持たせているのは、その周りの暗闇やざわめきとのコントラストです。
②【トランスダンスの一部】では、夜の暗闇に大勢の人が輪を作り、治療を受ける人を取り囲んで踊りと歌を演奏・演技していました。画面に映る限り、だいたい10人強の人々が、円をなしています。砂を踏み鳴らす足音や、唸り声に似た低く太い声が基層低音となり、その上に、おそらく女性のものであろう高い声が重なり、一つの大きな音の流れが形成されています。その流れの中で、徐々に治療を受けるキーパーソンの様子が乱れていきます。吐瀉や叫びの声のシーンが強烈な印象で迫ってきますが、依然として大きな音の流れは維持され、持続していきます。
また、最後の⑩【夜の仮面の登場】では、男性たち10名ほどがカメラに向かって寄り集まって、歌を演奏しています。何人かは小さな笛を使って演奏しています。笛と声の音は、連続していて「あ、今、笛を使ってる。」などとはっきり判別できるようではありません。呻きに近い声が発せられたと思ったら、次第に笛のように聞こえてくるような感じがあります。また、彼らのうちの何人かは木彫りの仮面を頭に被り、またさらに何人かは、革靴を履いてスーツを着ています。
春日さんの映像作品では、大勢の見物客たちによるカメラのフラッシュが映っていました。フラッシュはやはり、儀礼が保つ神妙さや空気を乱してしまうように感じられます。だが同時に、そうしたフラッシュの過剰さが、この儀礼のリアリティを保証しているようにも感じられてきます。
基層低音のような大きな音の流れも、憑依らしきもの・トランスらしきものに反するモノたちの声も、全てまとめて、憑依やトランスのリアリティを構成しています。今回の上映作品を全て見通していく中で、分離し判別できないこうした多数の声が生み出す迫力を感じることができました。多くの声の類似と差異の重なり合いが生み出したこの迫力は、そうそう味わえるものではなく、貴重な上映会だったと思います。
津田 啓仁