西野嘉章先生が語る、ECアーカイブの可能性 (2)
2016年7月23日、インターメディアテクにて開催された『キネマ博物誌――映像による万有知の構築』に関連して、東京大学総合研究博物館館長・西野嘉章先生にインタビューを行いました。
映像遺産としてのECフィルムの価値や、科学映像アーカイブがもつ新たな可能性など、刺激的なお話を全4回に分けてお届けします!
第2回 その時代の「ファクト」を留めた「人類遺産」としてのEC
ECに投影された「世界の見方」
ECの魅力の一つは、大勢の人々の持ち寄ったものが自ずから集積してゆく、いわゆる自己増殖的な資料体ではなかったということ。
「フィールドに出ていかないと映像が撮れない」という往時の状況下で、作る側が自らの意志、とはすなわち、自分なりの「世界の見方」を貫いたことにあるのではないかと思います。
百科事典というのは、「世界をどう眺めるのか、世界をどのように区分して、記載を体系づけるか」、そうした問いに対する答えを体現して見せるもの、言い方を換えるなら、その時代の世界観の投影物です。
有名なディドロの『百科全書』にしても、18世紀啓蒙時代の世界観を如実に反映しています。
ECは、1950年代のドイツの人々によって見出された「ファクト」の記録であり、しかも体系化しようという時代色に染まった意思の所産であり、加えて、それが「いつ、どこで、誰によって撮られたか」という明確なデータまでともなっている。そこが面白いのです。
いわゆる「オーファンフィルム」(*)と総称される映像遺産は、映像の「戸籍」に当たる情報を失ってしまったものを指すわけですが、ECは主として科学的な視点からシステマティックに制作されものですから、基本情報がしっかりと残されている。そこが「ファクト」を留めるという意味で、特別な意味をもっているのです。
ですから、ECを映像の「人類遺産」にすべきである、というのが私の考えです。
ECを構想したゲッティンゲン大学のヴォルフ教授とその周囲の人びとが世界をどう眺めていたのか。
科学者とはいえ、当時の時代状況がコンテンツに投影されているわけで、人類史的な意義を持つことは間違いありません。
映像遺産から「人類遺産」へ
第二次大戦後、映画の世界では、ロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』に代表される「ネオリアリズモ」が盛んになり、映像表現における「リアリズム」とはいかなるものか、議論されたことがありました。
眼の前の「ファクト」をそのまま映像に捉えれば、それが「リアリズム」なのか、いやそうではないのではないか、という議論です。
映画における「リアリズム」とは、高度なロマネスクであり、そこに映画の作品としての魅力があったのです。
そうしたシネマの文法にのっとっていないという意味でいうなら、ECを構成する個々のフィルムはあまり面白くないものが多いと見えるかもしれません。ですが、それらのなかに、ロマネスクな映像にない「ファクト」が眠っているわけで、当時の科学者が世界をどのようにカメラで切り取ってみていたのか、それを現代のわれわれに教えてくれるわけです。
ECには、世界各地の生活文化や祭式、あるいは動植物を写したフィルムから、産業技術、材料工学に関するそれが収められています。
非西洋的な世界観をもって自然のうちに生きる人々の暮らしの知恵が多く記録されている一方、それらの体系化作業には、当然ながら、〈ヒトと自然〉をめぐる、当時の西洋の科学者たちの「世界の見方」が反映されています。
21世紀に生きる私たちは、この映像を見て、様々なことを学びつつ、自分たちの時代の「世界の見方」について、あらためて思いを馳せる必要があると思います。
このような意味でも、ECのフィルムは「映像遺産」として重要であり、将来的には人類史的な意味での「記憶遺産」になり得る可能性が高いと思います。
1950年代から30年の間になにが起こったのか。この間に地球上で起こっている事柄、実験室で起こっている事柄を写し撮った、膨大な「ファクト」の記録集。
3000本とは「人類の記憶遺産」と見なすに足る本数だといえるでしょう。
アナログのフィルムで積み上げてきた貴重な映像遺産を、これからいかにして現代のわれわれにとって意味のある「人類遺産」へ変換できるか。
これは、われわれに課された大きな課題です。
(*)「オーファン(孤児)フィルム」とは、所有権や著作権などの権利の帰属が宙に浮いて引き取り手のいない作品等を指す。